シャニマス日記 Part.22 たまに忘れるほど強い理由
このブログ、まだ生きていたのか。
生きてるよ。
まだシャイニーカラーズばかりをやっているよ。
やはり俺は生産者にはなれないよ。という話。
なんかこう、キャラやコンテンツに対して”解釈”を持つことが正義だと錯覚しているフシがある。
インターネットの方々がどれほど努力をして(若しくはもっと自然に)それをそれぞれの内に芽生えさせているのかは分からないが、少なくとも僕はそれが出来ない類の人間なんだと思う。
自分には無理なんだと理解したうえでそれでもやっぱりなんだか微妙に悔しくて、ちょっと負けた気がして、そういうモヤモヤを解消するためのこのブログだったんだと思う。ただの記録置き場というのもあるだろうが、やはり心のどこかでそういうのを求めていたんだと思う。
でもよく考えたら俺は何に負けているんだと。そういう話ですよ。
消費者なら消費者なりの矜持をもってその世界と向き合えば良くないか。
だってそんなことしなくても今この世界に触れて息をしてるじゃん。
こんなにひとつのソシャゲが自分の中で長く息をしているのって初めてなんですよ。
じゃあそこには今のところ他の何でも消せない強い理由があるんだろう。
最近発売されたシャニマスの公式イラスト集(地球上最も重要な書物です)内のスタッフインタビューの言葉を借りるなら、この世界を見つめ愛する方法は、深く知ろうとする形も、傍らで見守る形も、それ以外の形も、すべて等しくこの世界に触れようとする方法として正しさを持っているんですよ。きっと。
それを肯定してくれていることに本当に感謝をしています。
だから何の憂いも無く僕はただこの世界を見つめます。
ただこの世界を観測してる。観測して、感情を得てる。
その感情を言葉や理屈で説明する必要は無いよ。
どんな理屈にも負けない感情がここに生まれてるじゃん。ならそれでいいじゃん。
誰にも届かなくても、俺に届いてるじゃん。
こういう恥ずかしい文章をここに残しておくことに意味があると信じて。
↑最近すごく良かったボイス。
そう、これくらいの楽しみ方でいい。
僕にとって最大限この世界に触れる方法がそれだから。
そのやり方が繋がって今、ここがあるから。
シャニマス日記 Part.21 【G.R.A.D.】幽谷霧子
2020年6月10日15時、霧子含むアンティーカとアルストロメリアのG.R.A.D.編のシナリオが追加された。
みなさん、アイドルマスターシャイニーカラーズをやっていますか。
僕はそれしかやってません。
過去の自分へ、僕はまだこのゲームをやってばかりいます。
未来の自分へ、僕はまだこのゲームをやってばかりいますか。
G.R.A.D.の追加により霧子の物語がしっかりと、少しずつ、進んでいく。それでも終わることはなく、続いていく。そういう喜びを感じております。
その喜びを、自分で自分を確認するための場所です。ここは。
霧子とは何だろうか。
そんなことを言葉にすることに意味なんて無いけれど、その時々によって変わっていくものだけど、このGRADを過ぎて今僕が思うのは、
霧子にとって「はんぶんこ」がすごく大事だということ。
幽谷霧子は、徹底的に「はんぶんこ」する。
こんなこと、誰の所為でもないんだよ。
別に霧子のせいじゃないし、あの子が悪いわけでもない。霧子がパンを貰ったって、あの子がパンを貰えなくたって、それは誰かが悪いわけじゃない。
でも、だからこそ、霧子はその苦しみをはんぶんこする。たとえ自分のせいじゃなくても誰かが傷つけば、自分も同じだけ傷ついてはんぶんこする。
分かち合えるもんじゃないのなら二倍あればいい理論。
苦しさと比例して僕らは近付ける。
そう、たとえばはんぶんこ出来ないケーキがひとつあったとして、わざわざもうひとつ買って来る。そういう生き物なのだ、霧子は。
同じだけ苦しいんだから霧子にもあるんだよ、パンを貰う理由……。
だから霧子にとって「他人と向き合う」ことが「自分と向き合う」ことに等しいんだ。
だから”アイドル”なんだ……。
こういう霧子の根本的な部分、WINGの時から変わってない。そこがすごくいい。
WINGで俺は霧子に「変わらなくていい」って言ってたけど、本当に大事な部分がちゃんと変わってない。やっぱり霧子の本質っていうのはこういう部分にあって、それとの向き合い方が少しずつ変わってるだけなんだ、ってわかる。ちょっとだけ何かに気付いたり、それだけ。霧子の根っこが変わることは無い。それを確かめられるGRAD。
最初にも書いたが、GRADで何か結論が出たわけではない。
霧子が常に抱えているものに対してたくさんある答えの中のいくつかを手に入れただけ。だから霧子の物語はまだ途中。
ああ、霧子
まだまだ……これからなんだ
これは2019年のやつ。
良いことも悪いことも全部、はんぶんこしよう……。